断食の神様ともよばれた甲田光雄医師の教え!
病気とは、生き方の癖から芽吹いたものである。根治させるには、根っこである生活習慣から見直す必要がある。故に病気治しは、生活の癖直しとなるわけだ。
さてこの甲田先生が説かれた生活の癖直しを考えた時、操体法の食・息・動・想・環の五つの要素に着目するべきではないだろうか?
なぜここで橋本敬三先生が体系付けた操体法をもち出すのか?
これは甲田先生の説く生活の癖とは生き方の癖であり、橋本先生が自分の責任でもって管理しなければならないと説かれた操体法の食・息・動・想・環の五つの要素と同根だからである。
この五つの要素の内で、甲田先生によって導かれた我々にとって特に印象深かったのが食という分野であろう。甲田先生は西式を体系付けた西勝造先生の影響を受け、西式の四大法則である栄養・四肢・皮膚・精神の内の栄養に特に秀でた活動をされたからだ。
先生は西式の体操も指導しているし、裸療法や温冷浴も健康指導に多用されている。ただ断食や生菜食などの食の分野が時代も相まって印象的過ぎたんだろう。
西式四大法則とは
- 栄養
- 生野菜食を中心に摂取し、暖衣飽食を退ける。断食・生食療法などが含まれる。
- 四肢
- 仰向けの姿勢で足のゆがみ(足先のモルトン氏病、足首のソーレル氏病)を扇形運動と上下運動で整える。これを根本的に治すには、六大法則の合掌合蹠運動で股関節より治す必要がある。また血液循環とグローミュの再生治療を目的として六大法則の毛管運動を実行する。
- 皮膚
- 皮膚及び内臓の排毒作用を高める。温冷浴や裸療法が含まれる。(乾布摩擦は皮膚を傷つけるから西式的にはダメとのこと)
- 精神
- 他の三原則を統括する中心原則。自己暗示に「良くなる・能くなる・どんどん善くなる」と唱えながら、六大法則の背腹運動を実践するといい。四十分合掌行や生菜食などをおこなうのも精神の在り方が変化しやすい。
四大原則を正三角四面体(三角錐)の頂点に置くことから、テトラパシーとも呼ばれる。
食とは
飲食だけにとどまらず、口から入ったものが外へ排泄されるまでも意識すべきだろう。
そして何をどの様に食べたかだけにとどまらず、あえて食べないことで起きる変化もまた食というものではないだろうか。
橋本敬三先生の視点
操体法の橋本敬三先生はヒトの持つ歯の種類とその数に合わせて食のバランスを考察されている。それによるとヒトの門歯上下合わせて8本が野菜に対応し、犬歯上下の4本は肉や魚を、臼歯上下計16本は雑穀類などに相応すると考える。これはヒトの各部分が進化の過程で獲得してきた能力であるという考えであり、歯の種類を観ることによって身体が必要とする栄養バランスの指標にされたわけだ。
その考察によると門歯、犬歯、臼歯の割合から野菜2、肉類1、雑穀類4という割合がヒトにとってちょうど良いのではないかとなる。生物の進化の過程より類推することで、人にとって必要となるであろう食材バランスを出すのは温故知新ともいえる発想だと思う。
甲田光雄先生の視点
これに対して西式思想を根底に発展させた甲田光雄先生は、食材のバランスよりも菜食主義を基本に食というものを考えられたようだ。そしてその中でも西先生が提唱された生野菜食を自身で試行錯誤することで、ついには生菜食という境地に至っている。
この生菜食というものは断食を通して宿便という概念を研究し、普通の食事をするとどうしても溜まる宿便をいかに発生させないかを考え試行錯誤された境地ともいえる。
ここで宿便とは何ぞやという疑問を持たれる人が出てきているかもしれない。明確な定義が為されている物ではないが、宿便とはどうも腸の垢ともいえるような存在のようだ。またその存在が腸にある時には当たり前ではあるが、腸内細菌叢にも影響が出る。だから生菜食とは宿便を溜めない食事であると同時に、腸内細菌を変容させる食事療法であるとも言えるようだ。
生菜食が万人に適応できるかというと胃腸の状態によって難しい方もいるが、準備食を根気よく続け鍼灸の胃の六つ灸を併用するすることで生菜食が可能になった患者さんをみたことがある。そういった意味では食という生活習慣を通して、人は体質を変容させることが可能であるということだ。
橋本先生は人体の進化的足跡から食のバランスを考察され、甲田先生は体質改善のいち手段を試行錯誤の末に考案されたわけだ。食という行為が持つ可能性とその癖ゆえに起きているかも知れない障害、そうした着眼点で生活を見直すと健康問題が解決することもあるかもしれない。
息とは
橋本敬三先生は息という点にも自己責任を持つべきであると着想されている。
産まれて「おぎゃ~」と息を吐きだしてから人は死ぬその間際の息を引取るまで呼吸という行為を無意識化でまたは意識的に続けている。
呼吸は自律神経活動と縁深い。呼吸を通して古来より、人体の不思議に人は介入してきた。時に宗教の技法として、またある時は武術の技法として。そして緊張した時にそれを和らげようと深呼吸してみたり、呼吸法というものは意識的に利用されてきた。
目安としての知識
幼児期(1~6歳) | 一分間に20~30回程度 |
学童期(6~12歳) | 一分間に18~20回程度 |
成人 | 一分間に16~18回程度 |
橋本敬三先生は著書『誰にもわかる操体法の医学』 の中で呼吸のリズムについても書かれている。リズムとは呼吸のタイミングというか調子のとり方についての記述であり、「吸ー止ー呼」の動作を4:16:8でおこなうというものだ。4拍で息を吸わなければならないというよりも、自分の心地よい呼吸の長さにこの調子を倍数しておこなうとよいのだろう。
例えば吸うのを8秒かけておこなうとすると、止は32秒であり呼が16秒となる。なぜ止という行動が入るのかと初めは疑問に思ったが、実践してみるとしっくりとくる。止の必要性は吸った空気が肺で入れ替わる為の間になるようなのだ。そしてこの間が入ることで、どうもリラックス効果を持つようなのである。
呼吸のリラクゼーション効果という観点について、NTTラーニングシステムズ株式会社の佐藤 和彦先生という方が心身健康科学の5巻 2号に『リラクセーション手法としての呼吸法』という文章を発表されている。この方は敬三先生とはまた違った2:1:4のリズムを論文中に発表しているが、吸いと吐くが1:2であるのは共通であった。止が敬三先生よりも圧倒的に短めではあるが、普段呼吸の浅い人などはかえって止が短い方が馴染みやすいのではないかと時代的な能力変遷的に推測してみたい。
現代人は敬三先生が想定されているよりも、運動不足や呼吸筋や背骨の連動不和などの姿勢問題から浅い呼吸になりがちなのではないかと考えるからだ。勝手な推測なので、私見としても裏打ちのない自信のないものではあるが直感的にはそう思うのだ。
そして敬三先生が著書の中で書かれている呼吸については、姿勢や腹圧などの呼吸圧についても自律神経の働きなどの観点から考察がされている。
息・食・動・想の同時相関相補性を考えると奥が深すぎて理解が追い付かない。さらに深呼吸など呼吸でリラックスを求める上においても、姿勢や呼吸時の圧のかかり方など難しく考えると奥が深くなる理合いがいっぱいあるのだと思う。
我々が普段は無意識にしている呼吸ではあるが、されど呼吸は奥の深いものなんだなと考えさせられる。そして普段の呼吸といえども、健康になる為の手掛かりえるのだという希望もわいてくる。
動とは
西式では四肢にあたる項目であり、甲田先生も処方箋にかなり多い体操指導の指示を書かれていたようだ。
橋本先生も身体の骨格の歪みから内臓の不調やいろいろな整形的症状などが発生しており、歪みを整復動作でもって正常な動きにはめ直すことで症状は改善されやすくまた血流改善などから自然治癒力も作用しやすくなると説かれている。
画像:人間動く建物
操体法では人の身体は動く家であり、その動きを改善すればその他の呼吸・飲食・精神活動についても同時相関相補性によってよい影響が作用し合うと考える。
これは上の画像の通りに人の身体が動く建物の様に骨格系があり、その骨格の骨組みに内臓や神経と血管などが通っていることをあらわしている。そしてされらは相互に作用し合うわけだ。その為に骨格や筋による歪みがあると、その周辺に緊張が影響することで血管や神経が圧迫されたりする。
すると局所的に血流が阻害されることで貧血状態が起きたり、神経が圧迫されることで障害が発生するなどの影響がでてくるわけだ。
その影響が機能失調レベルであれば、歪みという問題が解決されると機能が復活する可能性がある。しかし細胞などに変調をきたし過ぎて不可逆性の変化まで起きると歪みが解消されても厳しいというわけだ。
施術者の気持ちという脱線
不可逆性とは読んで字のごとく、逆に戻れないということである。だから片道切符ということになってしまう。よく患者さんに病は来た道を戻るようなもので、時間をかけて病んできたものは同じくらい戻るのに時間がかかると説明する。機能的障害から器質的な変化まで症状が進んでしまうと、その帰り道が絶たれてしまうのだ。まだ戻れる機能障害のうちに無理をさせて、症状が器質破壊や骨の変形が進んでしまうと非常に残念だ。
だから引き返せるうちに、病の道を引き返して健康にまで戻って欲しい。けっして未病辺りで症状が緩和したからと安心したりしたらいかんのです。
歪みが改善されるとどうなる?
身体の歪みが改善すれば循環なども回復するから細胞が元気になってくるわけだ。それを理解すると関節周囲の緊張や偏りが血流を狂わせたり神経系にストレスを与えることが想像できるし、整復体操や身体のバランスを維持強化する鍛錬にたいする考えも変わったりせんだろうか?
例えば西式の合掌合蹠で四肢の狂いを改善することは、筋トレ効果を含めて日々の中で目に留まらない程度の効果の積み重ねをしている。この小さな積み重ねが継続されていると、老後などに非常に大きな積み立てとなるわけだ。毛管体操にしてもそうである。
だがどちらの体操も仰向けで出来る単純動作の反復であることから嫌煙されがちだと思う。ノルマをこなすのが疲れてしまったという状況の人もいるかもしれない。
だがその体操動作は、身体の中で必要になる生理現象を助ける作用があるかもしれない。だからこそ細々とでいいから長くこつこつと継続することで効果が出てくるタイプの体操をノルマとして取り組むのでなく、身体の変化を観察しながら取り組んでいただきたい。
例えば身体を動かす時に筋肉がどのように動くかを実感しながら取り組んでほしい。そしてその動きや関節の変化を実感してほしい。固かったからだが柔軟性を取り戻していく些細な変化を楽しむのが一番の継続方法ではないだろうか。
身心の歪みをただし、退化していく機能を老いに負けることなく強化していくために体操を継続する。そうした習慣を楽しむのが一番予防医学としては効果的なのだと思う。
想とは
人の感情は行動や姿勢に表れる。また姿勢などの形に感情は影響を受ける。心身は一如であり、また身心も一如であるということなのだろう。
敬三先生は著書『生体の歪みを正すー論想集』の中で骨格不整と精神活動の関係性を書かれている。
その論述を読み進めていると、西式の背腹運動のことが頭をよぎった。西式健康体操の背腹運動をあえてゆっくりと頭の遠心力を感じながら毎日繰り返してみていただきたい。
本来の理想的な速さは1分間に50から55往復が背腹運動の推奨スピードだが、そこをあえてゆっくりと遠心力や身体の力みや動きを観察する。頭の遠心力を感じながらメトロノームのような左右の振り子運動を繰り返し、呼吸とは別駆動なお腹の出し入れを繰り返しながら禅のような境地を目指していただきたい。
単調な運動を繰り返す中に身体の変化を内観する。この一見単純な行動の中に広がる変化を、じっくり追いかけるのが重要な工程なのだと思う。
ゆっくりとした動きだが、いろいろな身体の情報が観えてくる。そして直せるかぎりの動きを正しながら、背骨にかかる遠心力をあげるべくスピードを上げていく。するとある程度余裕をもって運動に没入できるようになった段階で「良くなる・能くなる・善くなる」と無心に繰り返し見てほしい。
自己暗示でもあるが、刷り込みによって想念が変化する日常の無意識な変化をじっくりと観測してみていただきたい。身心一如がある様に心身一如もまたある。心のありようで身体も影響を受ける。
人というのは案外と認識している部分は深いようで浅くもあり、その実無限の可能性をもつ不可思議な存在なのだと思う。
環とは
最近は生活環境が荒れてきている。
自然環境が荒れてきている以上、我々の身体もその影響を受ける。好い影響であれば大歓迎であるが、悪い影響だと困ったことになる。そんな好悪ある生活環境を仕分けて都合の良い環境を自分で考えるのもやはり自身の責任だということだろう。
生活圏内の環境を好ましいものへと整備する。実は我々日本人は縄文の時代からコツコツとおこなってきた歴史がある。ドングリなどを植林して里山を作りだし、時代が進めば川の流れを付け替えたり池を掘ったりと治水もする。
耕作地の開発として山を拓いて田畑にしたり、大小さまざまにいろいろな事を自然の運行に従いながら時間をかけながらおこなってきた。最近は土木工事の規模が大きくなり、自然環境と人間がおこなうこととの間に時間短縮が為され過ぎて調和がとれなくなってきているように思う。
調和がとれるだけ時間をかけずにこちらの要望によって改変しているから何かのきっかけで、どうしても人間が予想した範疇外の問題が噴き出したりもする。水の営みを考えずに道や宅地を拓くと大雨の時などにどうしても水の対処が間に合わない時がある。すると大水が出たり大地が崩れたりするから困る。
土木工事力がそこまでない時は工事中に問題が発生するから微妙な変化をみながら、つど危険を察知して諦めたり対策を講じてきたわけだ。そしてその対策を上回る災害が起きた時には、自然への畏敬の念を抱くことで自然神が尊ばれる。そのことで神の領分と人の領分で住み分けが発生し、身の丈というあきらめがつくわけだ。
あきらめがつくようになると人が安全に暮らせるのが人の領分であり、神の逆鱗に触れることのあるのは人の領分外となる。人の領分は安全であり、神の領分を開拓する時はある意味自然とのギリギリの駆け引きをするようになるわけだ。
現代はその神の領分ともいえる自然の範疇に知らずに踏み込んでいたりする。そしてその領分とは何も治水や宅地問題だけではない。
食物に含まれる添加物や意図せずに巻き込まれている電磁波なんてものもあれば、睡眠や疲労などを含む身心にかかるストレスと身体が対応できるぎりぎりの駆け引きを知らず知らずに挑んでいる。
これらの分野はまだ我々には未開の分野であり、まさに神の分野といえるだろう。我々は人体の内外の環境変化から意図せず、知らず知らずにいろいろな影響を受けているわけだ。
この影響が我々にとって好ましいものなのかよろしくないものなのか!
環境の変化がゆっくりな時は一つの変化がもたらす良し悪しを判断してから対策を講じることができた。しかし昨今の内外の環境変化の速さは目まぐるしい。技術革新を重ねることによって、もう身心にどんな影響が出ているかも長期観察があやふやで突き進むの常態化している感がある。
生活環境の原始回帰をする必要はないが、我々をとりまく生活環境よる影響が身心にとってどんな影響をもたらすのか?そしてその影響にたいしてどの様に対応すればよいのか?良い悪いを検証すべきは検証し、対策が必要なものには対策を施す必要があるのではないだろうか?
知らぬ存ぜぬで火傷をしたからその責任を自分以外の誰かに求める。そのような無垢な子供のような対応が通じるのは人の領分までだと思う。未知の分野に足を踏み入れることがもたらす危険には、未開の自然に分け入るような心持でいる必要があるのではないだろうか。
生活の癖とは生き方の癖
上記の息・食・動・想・環の五項目は、生活の大部分に密着している。想も入ることでもう生き方の癖とまで言えるのではないだろうか。身体の使い方や思考と情動の特徴は、各個人の癖として心身に特徴を刻み込む。
この癖が病的な分野にまで機能を障害しだすと問題となる。だから未病ともいえる機能が少し失調気味程度の間に機能回復するように習慣を改善しないといけない。
病気治しは生活の癖直し、これは予防医学から病の改善にまで通じる至言である。