和治鍼灸院

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新型コロナウイルス 考えてみた

新型コロナ感染対策認識に対する一考察

自動車事故発生要因と新型コロナウイルスの感染拡大におちいる現状が、どこか似ていないだろうか?

新型コロナウイルス感染を避ける日常とは、事故を避ける為の自動車運転のようなものなのかもしれない。車による自動車事故とは、基本的に走っていなくても事故がおきる可能性がある。もらい事故といわれるような類の事故である。

駐車場に停めていた車をぶつけられる。信号や交通事情で停車していた所へ追突されるなどの事故だ。

このような交通事故を避ける為には、個人レベルの努力では限りなく無理といえるし、完璧を目指すような感じでリスク回避を考えるならば、もう乗るという事故発生機会を減らすしか対応策は無くなるのでは無いだろうか。これを新型コロナウイルス対策に当てはめるならば、引きこもり型自粛生活になるだろう。

そしてこのようなもらい事故以外の一般的な事故については、危険予測を立てながら安全運転を心がけるのが基本姿勢だろう。基本的には、危険を察知した時には停まれるようにスピードを出し過ぎないことだ。スピードを出し過ぎなければ、見通しの有無や飛び出しの危険性などを考慮して俗に言う「だろう運転」に陥らない様に心がけるだけでもとっさの危険状況に対応できるだろう。

きっと飛び出してはこないだろう。前の車が急ブレーキなんかかけないだろう。対向車がいきなり右折なんかしてこないだろう

などの○○だろう。という自分の希望に近い予測は、裏切られると事故が起きる可能性が高い。道路を利用する皆が交通ルールを守っていれば、比較的安全であるはずだ。しかし交通ルールを曖昧な解釈で自己都合で運転する人は世の中にはたくさん存在する。

なぜ今回、この様な自動車事故と新型コロナウイルス感染拡大に至る現状が似ていると感じたのか、それは新型コロナウイルス感染対策が基本的交通ルールをみんなが理解して守るだけでも自動車事故が減らせる可能性があるように、感染予防対策にみんなで取り組めば同じく感染拡大を防げるように感じたからだ。

先ずは新型コロナウイルスの現状での基本的な感染対策方針を確認したい。

基本的には、ウイルスと接触しないのがベストである。

そうした意味で、感染機会を減らすという意味合いでの不要不急の外出を考慮する。自宅など安全エリアと認識される区域に自己隔離される引き困り型が理想だろう。

この感染機会を減らす根本的な感染回避は、ウイルスと遭遇しない環境が保てる限りは絶対的な効果がある。

次にウイルスと接触する可能性を考慮した上で、出来るだけウイルスを体に取り込まない工夫を考えてみたい。

外出時の基本としては手洗いうがいマスク着用三密を回避するという辺りが基本的な方針となるだろう。

手洗いなどが難しい場合は、代替法としてアルコール消毒が有効であると考えられている。

手洗いの狙いは、手を使っての侵入経路を警戒することによって、口や粘膜へウイルスが接触する機会を極力減らそうという作戦な訳だ。だから手洗いもアルコール消毒も形式的な手抜きで粗のある行動をとるとその行動の効力が変わる点に注意して欲しい。

次にうがいであるが、これは口腔内を洗い流す事でウイルス濃度を極力下げる事を目的にしている。新型コロナウイルスは飛沫感染が確認されている。飛沫を知らずに吸い込んだり、手を介して口への侵入を許してしまったとしても、体内への侵入を口腔までで極力減らそうという努力である。

基本的にウイルスは細胞の中に入らなければ空気を介して微粒子となったウイルスがマスクを越えて更に侵入したとしても、ウイルスにとってはまだまだ過酷な状況が始まったというのが実情である。

どういう意味かというと、ウイルスとしては細胞の中まで侵入しないと増殖という目的を達する事は叶わないのだ。しかもたとえ口腔や鼻腔を介して体内に侵入したとしても、小さなウイルスにとって細胞内に至るまでの道のりはかなり厳しい。

なぜ厳しいかというと、免疫機能を含む生体防御機構があるからだ。これらの作用によってウイルスは絶えず攻撃されて破壊されていく。ではそれらの防御機構によって破壊されていくウイルスがなぜ細胞内に至り増殖し感染という状況が出来上がるのか、これは圧倒的な物量作戦にウイルスが出るからである。

だから感染対策としては、活発なウイルスをできるだけ減らすだけでも意味があるのだ。その為の手洗いであり、うがいであり、マスク着用でもある。

そして理解しておいてほしい事だが、普通のマスク着用にはある程度のフィルター効果が期待できるのだが、完璧な防毒マスクとしてのウイルスを通さない効果は残念ながら無い。

マスクとは安全な空気を吸う為の代物というよりも、自身の発する飛沫を遠くに飛ばさない為の工夫という方が主目的になってくる。

また自身の感染予防として活用する場合、結構な頻度でマスクを新しくする必要があるのかも知れない。これはマスクがフィルターとしては完璧では無いとはいえ、多層構造からウイルスをある程度絡め取ってくれている事実があるからだ。

絡めとったウイルスが集まると、ウイルス濃度がマスク自体で高くなる。そんなマスクを手で触ると、そこから感染拡大の糸口になる可能性問題が予想できるだろう。そうした可能性を考えると、ある程度使用した(時間的に、または出来事)段階で新しい物に変える必要があるわけである。

でないとウイルスを集めることでかえってウイルスの温床となり、ウイルスとの接触を増やす危険性が出る。だから医療機関は使い捨てマスクを多用するわけだ。(この様に過去の筆者は書いたわけだが、あるニュースで考えを改めました。危険認識が少し落ちました。そのニュースリンクを下に貼っておきます。)
「実験で新事実「ウレタンマスク」の本当のヤバさウイルス専門家、西村秀一医師が徹底検証」

まあウイルス自体を認識してマスク交換をするわけでは無いので、リスク回避の一方法という認識でいいと思う。そしてウイルスは目に見えず、認知しにくいことから、滅菌を目指すのではなく、除菌レベルの対策を重ねることで侵入ウイルスを減菌することで体の負担を減らしてウイルスによる物量戦に対抗するのが精神衛生上的にも無難なところだろう。

※上記リンクの記載が指摘する、咳の飛沫を正面から浴びる環境でなければ、マスクを手で触るのはそこまでのリスクではなさそうです。

こうした目には見えないウイルスという存在を警戒しながら、できるだけウイルス感染を避けようと工夫する姿勢はどこか交通事故を防ごうという姿勢に重なるように思えないだろうか。

ウイルスが侵入した時はどうなる?

体の防衛機構である生体防御機構とは、鼻であれば鼻毛や粘膜組織によるフィルター機能や鼻水による排除機能、そして粘膜にも存在する免疫機構より派遣されている細胞免疫や獲得免疫による抗ウイルス対応により菌やウイルスを敵として殲滅しようとする。ちょうどタワーディフェンスゲームのような様相を呈している。だからウイルスにとって体内とは、溶鉱炉に入るような自壊を着実にすすめてくる死地でもあるわけだ。

そしてこれは口からの侵入に対してもフィルター機能や排除機能があり、唾液や気管支にある繊毛による異物排泄活動などを通して防衛機能が働いている。

このようにウイルスは侵入した端から基本的に人体に攻撃される。そして鼻水や涙に唾液や痰などによって体外へと排除され、粘膜部での免疫的な攻防によって不活化されていくのだ。しかしそれでも人はウイルスに感染するのである。これは何故か?

免疫力の低下粘膜の不調、それ以外にも圧倒的なウイルスの物量作戦の前に鼻腔や口腔にウイルスの橋頭保が構築され(感染が起きた状態)細胞へもぐり込めた場所で増殖することで物量戦に敗れ人は感染してしまうのである。

だからウイルスとの接触有りきの感染症対策とは非常に難しく、ある意味失敗を前提にしたリスク軽減を考えて動くぐらいがちょうどいいのである。でないとどんどんウイルスとの戦線が後退させられる可能性が高いのである。

故に今回の新型コロナウイルスに対して医療側は自粛を求める際に、不要不急の外出の取りやめを推奨するという感染機会の軽減ないし根絶を前提にするのだ。

そして感染機会の根絶自体が不可能な段階では、次善策として三密を避けて行動することを推奨し、また手洗いうがいマスク着用を薦めているのだ。

ただこの場合はウイルスとの遭遇が前提として想定されており、また一定数の感染者が出てしまう可能性を医療側は経験より推測している。故に一般人に強い自粛を促す医療側と経済を回して日常生活を取り戻したい一般人との間にどうも危機意識のギャップが有るように筆者は思う。

これは交通ルールの厳守を求める交通警察側と、事故さえ起こさなければ少々ルーズでも大丈夫だろうと考えて運転する一般人の意識差にもみられる危険認識の差のようなものでは無いだろうか。

危機感のギャップ

ではなぜ新型コロナウイルスに感染してはいけないのだろう?

よく日本と海外の車のバンパーの車の扱いでの認識違いを冗談の様に話題にされることがある。新型コロナウイルスの危機感を理解しない人と危機感を持つ人とには圧倒的な危機感のギャップが、バンパーの存在意義を問うような認識の違いがギャップとして存在するように思う。

車のバンパーは車本体を守る為に存在する。ここは共通認識だが、聞いた話しでしかないのでどれぐらいの誇張が入っているかは定かではないが、少なくともアメリカの一部ではバンパーはボコボコになるまで日常的に活用されているようだ。

日本人の感覚としてはバンパーにも傷が有ると不快感を持つが、話題にあげた地域の常識からいうとバンパーを活用する結果でしかないので傷が有るのはしかたがないのである。

バンパーに傷が有るのはバンパーが存在意義を発揮した為であり、あたりまえなのである。靴底が普段使いに活用して歩けば減るように、いたしかたがない現象なので有る。この様な考え方は日本人的にはありえない常識の違いでは無いだろうか?

これと同じくらい新型コロナウイルスに感染するという意味の認識に違いを持つ人が、現状の日本には混在しているように思う。

日本で新型コロナウイルスが流行り始めた初期の頃は、よくインフルエンザウイルスよりも毒性が弱くて致死率も低いから、過剰反応すべきでは無いという風潮があった。これはその頃に解っていた情報的には、その様に推測するのもある意味致し方ないとは思うのである。

もしかしたらインフルエンザのように季節的な流行で解決するかもしれないし、現に重症化する人はまだ極少数でしかなかったし、無症状なんて人が確認されるぐらいに深刻な病状に大半の人がおちいらないのだ。

個人レベルにおいての危機感としては、それなりのウイルスや病気というものに対しての知識が不足している状況だと危機感を持ちにくいだろう。運転に例えると、「きっと○○だろう。」というだろう運転な状況だろうか。

そんな人が、「ただの風邪の原因の一つであるコロナウイルスが新型コロナウイルスという変貌を遂げたところで、新種な為にうつりやすいだけでやっぱりただの風邪でしかないだろう。」と判断するわけだ。

すると無症状者というイレギュラーもあった為に、新型コロナウイルスは日本国内に持ち込まれてしまった上に流行路線に進むのを阻止できなかったのである。するとだんだんと海外の悲惨な状況が聞こえてくると拙いぞと危機感を持つ一般市民も増え出す。

そうした危機感を持った人達によって、日本は何とか感染の進行が爆発的に進まなかったが、安倍さんの非常事態宣言のタイミングの影響で経済的な影響が出たこともあって楽観ムードが醸成されてしまったのではないかといわれている。

更に日本の医療システムがなまじ優秀である為に、新型コロナウイルスによる死人が海外に比べて徐々にしか増えない為に更に楽観ムードは加速してしまう。自粛政策による不景気も追い風になって、加速度的に大半の人が持つ何と無くの危機感塗り替えられていったのではないだろうか?

車のバンパー認識のギャップのようなものがここで誕生する。

それはウイルスの蔓延してしまった状況がもたらす危険度である。またウイルスは変容してしまうという認識でもある。幸い新型コロナウイルスは今のところ毒性レベルは安定しおり、劇症化する可能性については今のところまだ杞憂で済んでいる。

ただ致死率については感染者が増えるにつれて変化する可能性がある。これは一定数の重症化するリスクを持つ人をどれだけ救えるか、それに伴う影響によって医療崩壊がどれだけ進むかにかかっているように思う。

医療崩壊が起きると、ダムの崩壊のように影響が新型コロナウイルスに関係なく増える。そしてその混乱と不安から新型コロナウイルスによる重症化率も上がってしまうのでは無いかと筆者は考えている。

致死率とウイルスの変容リスクは、ともに感染者が増えるとそれだけ可能性が生じるので、先を考えるならば感染者を何としても低く抑えた方がいいに決まっている。

医療者が持つ医療許容量的な危機感

次に新型コロナウイルス患者を受け入れる病床が人口比率的に多くない点が話をややこしくしている。人が動くと上記したが感染リスクが生じる。そして一定数の感染者が現れる。これはある意味致し方ない。

そしてウイルスが市中に無症状者を含めて拡がっていくと、感染する確率がどんどん増える事を意味する。

初の感染者1号が2人にうつしたとする。次の2人が同じように2人にうつすと、時間が経つとともに倍々ゲームのように感染者は増えていく。そしてその中に一定数の重症化する人が含まれる可能性があるのだ。

重症化リスクは高年齢や基礎疾患を持っていると跳ね上がるようだ。海外の死亡者の結構な割合に糖尿病を持つ人がいたようである。糖尿病を患う人間がどれくらい周りにいるだろうか?また免疫力が低下しているガン治療中の人はどうだろう?

免疫力の低下や肺や循環器系に慢性的なダメージを持っていると、そこが弱点とばかりにウイルスに付け込まれ、重症化するリスクとなるわけだ。

更に新型コロナウイルス患者を現状では軽症重症という2分類する様だが、重症者と分類する人は人工呼吸器を必要とするレベルをあらわすそうだ。軽症区分の人が肺炎症状で苦しんでも、必ずしも重症患者としてはカウントされない。そしてそんな軽症者分類の人からも、後遺症の報告は結構深刻なレベルなものまで含めて報告され出している。

重症化認定される時人工呼吸器やエクモなどの機材治療に必要であり、その状態を脱するのにそれなりの時間を要すると言われている。先にも書いたが、人工呼吸器などを必要とする患者を受け入れる設備やスタッフを要するベット数には限りがある

そして新型コロナウイルス患者を受け入れてくれるベット数は、現状において新型コロナウイルス患者の増えるスピードや国民の持つ基礎疾患的な重症化リスク的には少ないといいきれる枠しか用意できていない。

このベット枠を含む医療許容量は、患者の入院と退院が最低つりあわなければならない。しかし現状では通常医療でも余裕はあまりなく、そこへ新型コロナウイルス対策の隔離施設を捻出する必要が出ている状況だ。

感染拡大は、日本の人口的においてはまだ始まったばかりといえる段階でしかない。

しかしその受け入れ枠の少なさや現状の患者への治療対処法についての情報共有が圧倒的に足りていない故のギャップが医療者側と一般人に生じている様に思えてしかたない。あたかも片方はバンパーの役割を果たさせるべきと言わんばかりの乗り方をする人の常識のような新型コロナウイルスに対する危機認識であり、なまじ現状と先のリスクを想像できるゆえに潔癖的な対応を求めたがる危機認識

バンパーに傷がつくのが痂皮となるのかどうかの様な認識のギャップを生むのは、危機的状況予測を共有していないからではないだろうか。

筆者の結論

ある人がネットの投稿の中で新型コロナウイルスによる死者数経済政策の影響による自殺者とどちらが被害が多くなるだろうかという書き込みがあった。

この認識は正しい様でズレているとも言える。新型コロナウイルスに対する姿勢としては、社会一丸となって事にあたるべきである。そして新種の感染症がもたらす混乱については、今後も一貫してそのように社会的に対応するべきだ

現状の医療経済による問題は等しく新型コロナウイルスがもたらした影響であり、その影響に対して個人で対応するには余りにも影響が大きすぎる。また社会的に協力して感染予防対策を実施しないと、感染症を未然に防ぐことは難しいといえる。

医療と経済の切迫している問題は、どちらも対岸の火事ではない。どちらも社会的な問題であり、どちらにも資源も労力も割かなければ共倒れしかねない質実な問題である。個人レベルでの自助で何とかできるという危機認識から、社会レベルの危機であると認識を改めて対応していく必要が有るのではないだろうか。

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